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建築とか課題とか愚痴とか。

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以前、先輩の話で、宗教が出てきたので、それに関して少し独り言。

宗教と言っても、私の家はなんちゃって浄土真宗ですけどね。
厳格な浄土真宗の家と無神論者の家の狭間に出てきてしまった、だけです。

前半、唯一神教と多神教についてとくとくと語ります。いつも通りですね。
後半でやっと本題です。途中何の話をしてるのか解らなくなってきて、とても長い内容になりました…いつも通り。うん。


唯一神教と多神教、理解できるのは多神教。唯一神の定義が、頭にしっくりこない。
お米のひと粒ひと粒には七人の神様が、って昔の少女漫画にあったし、付喪神って獣や由緒あるものは護るものだし、昔からそういう、何にでも神様は宿る、ていう感覚は日本人の感覚だと思う。
八百万の神、八百万も神様がいる国なんて日本くらいのはず。
神話をひっくり返せば北欧にもギリシャにもインドにも、ごまんと神様はいるけども、欧州の神様のつくりと、日本の神様のつくりが違うんだと思う。
日本は、付喪神の観念がとても大きい。下手したら鞄のひとつにも筆記用具にも何かが宿っている。持ち主の崇拝・怨念で生まれてしまう。欧州でも、あるにはあるけど、不特定多数の崇拝で生まれる神様がほとんどのはず。
固定観念かもしれないけど、まあ、神様に対する考え方が違う。
日本はさらに、仏教も犇めいてるからめんどくさい。多神教のうえ多宗教主義って。いわゆる神道と呼ばれるのが八百万の神に基づく宗教。
仏教はほぼ無関係で、日本のは中国仏教が日本で飽和した結果で、元をたどればインド仏教にまでいくわけで。信心の変化とか分かれるけども、根本は変わらない。
神様を信じて慎まやかに暮らしていれば、浄土に行ける。それだけ。


話の核にしたいのは、はたして、ほんとに神様を信じて慎まやかに暮らしていれば、天国に行けるのか。その魂は洗われ、来世に無事生まれ変われるのか。
この辺が宗教の如何を問われるところで、とても非現実的なところ。
嘘をついたら地獄で舌を抜かれるけども、さて、今の世界で嘘をつかずに生きてる人間がどれほどいるのか。おおきな罪は犯さずとも、人間は生きるにあたりとても罪多き生き物だと思う。地獄行きは免れない。
そんな将来(?)を見据える現世ほどアホらしいものはない。現世に絶望するなら話は別として。
だから、重きは死ぬまでの過程であって、お釈迦様とかキリストとか、誰を何を崇拝するって問題ではなくて、どんなふうに崇拝するかの問題なんだと思う。

なにか自分の信ずるものが、人にしろ物にしろ自然にしろ事柄にしろ一つあって、それによって自分が護られていると、それに従って生きているということが大事なんではないのか。いわゆる信念・信条と呼ばれるのが、自分の信ずるものに基づいていて、神様と同一視するかはちょっと置いといて、神様を信じて生活するように、信念信条に従って生活する。
そういうもののはず。
唯一神教を否定するわけじゃない。あれはあれでひとつの文化文明であって、
ただ私が理解できないだけ。

つまり、唯一神教は天地開闢から始まり世界を定める唯一では、ないということ。
じゃあ《唯一》神教じゃないじゃんよ、いやそう言うことではなくて、あの宗教において信者にとって神様は一人しかいないから、《唯一》なわけ。
ただ、あの宗教は他宗教の神様を否定するから、理解ができない。


人には必ずひとつは、信じる軸があって、それが複数人により究極に神格化されると、広い意味で「宗教」という形になる。天地開闢・神の誕生・人の誕生・人の世の訪れ、そういうのを形作り、神話になって、うまれた神が人を導いて人の生について説く、のが宗教。
神様が一人か複数かは大事なところだけども、信条がひとつなら、他人の信条を批判することもあるかもしれない。
残念ながら私の中の信条は一本化はされていなくて、あれはこれ・これはそれで軸があるらしい。信条をひとつに絞るほど盲目的にはなれない。一途でいたいけども、一途にはなれない。
最近の「将来の夢がない」のは、こういう軸がないからなのでは。
まったく何もないのは一番困るけど、軸っぽいものがいくつもあって、フラフラしてるのもいけないのかもね。

自然を神と崇める、先述のとおり日本の神道に近いものが日本人の脳髄の中にはある。お釈迦様の存在は信じられなくても、山神様の存在はなんとなく信じられる。この端末も何度も反応するけど、「おしゃ●しゃま」って曲すごく良いと思う。
世界中の地球温暖化は、人類の傲慢が原因だというのは聞いたことがあるんじゃないでしょうか。
人類の傲慢、つまり自然への畏怖・信仰・崇拝が薄れていったこと。
科学の進歩とネットによる社会の縮小化が、人類の感情から「信仰心」を殺いできたこと。
軸がなくてふらふらして、その時々の気分や流行り流される、恣意的な思考に支配されていること。
一昨年のとある授業で、直結しないと思っていた「低炭素社会」と「宗教観」がバチッと繋がって、ちょっと軽く3,4年ぶりくらいに感動したのを憶えてます。
だから「宗教なんてオカルト臭い」って言っちゃいけない。キリストがどうとか言わないけど、信じる何かがあるって、すごく大事なことだと思うんです、人間的に、自分のために。もっといえば、信じる先に地球があればなおいい。環境保護論者になれとは言わないけれど、人類を過信しすぎてはいけない。
人間は自然には勝てない。人間は神にはなれない。人間を盲信してはならない。
ちょっと前からそれが一番大きな軸になっている。
それとは別に、照準を絞りたいものがいくつかある。いつか将来、身を養っていく一部になるかもしれないし、頭の中で熟すだけのものかもしれない。生きていくにあたり目標みたいな、スタイルみたいな、決して恣意的ではないもの。

私の場合、絵を描いたり小説を書いたりする、自己表現のひとつであればいい。
それに、建築に関わる何かを軸になっていればいい。
例えば光と影にまつわる建築のかたちだとか、まちづくりや景観にまつわるものだとか。
うちの先生が街路性や壁面性に拘わるように、自分がこだわりたいものが軸になるんだど思う。頑なに、建築はこれだろ!ってものを、崇拝するまでに至れば、それが自分の神話、宗教にすらなりうる。
自分の軸を盲信して誠心誠意生きていけば、地獄行きは決まってんだから、せいぜい軽い罪で満足して死ねるんじゃないの。死に先がどうだろうが、生きてる間に満足してればいいんじゃないの。
他人を傷つけるのを良しとしないなら、それも軸の一部でしょう。他人をものともしないなら、排他的だけども、いいんじゃない。
戦厄神マルスを崇める宗教だってあるんだし。日本にも禍神、という言葉はあるし。

そういうひとつを見つけたい。
絵も小説も、写真も出版も、建築もやりたい。
排他的にはならない。理解できなくても、排除はしない。
全部ごっちゃにした坩堝でも構いはしないけど、自分の中のトップ5を定めたい。
定められたら、一途になれるはず。


心理的な自己表現の話をし始めると、どうしても詩的になってしまうのは仕方ない。
詩的、って言葉がいけないんだよ。
せめて叙情的と言おう。

あとの建築の話はあんまり真面目にしてないのでいいとして、宗教観についてのお話でした。

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